専養寺の歴史

 文禄4年(1595)に、この地の豪族、野々垣源兵衛が施主となり建立し、喜運和尚を開山として壇越*となりました。

 

壇越・・布施をする檀家・信者

野々垣源兵衛と米野の戦い

 

 慶長5年(1600)。その年の9月15日に始まる関ケ原の戦い前の8月21日。豊臣側についた当時の岐阜城主 織田秀信(幼名:三法師)を攻める為、徳川側の池田輝政と福島正則は河田島(現川島町付近)から米野(現笠松町)ルートと起(現尾西市起町付近)ルートに分かれて進軍しました。

 

 米野ルートから攻め込んだ池田輝政と通じていたこの地の土豪、野々垣源兵衛は当時非常に水量の多かった木曽川の浅瀬に目印を立て、進軍を助けたと伝わっています。

 

 織田信長の時代より当地において筏運搬の許可を独占的に与えられていた源兵衛ならではの知識が役に立ったと言えます。

 

 激しい戦いの末、徳川側の勝利に終わり、岐阜を追われた西軍は関ケ原を最終決戦の場に選びます。

 

 功績を認められえた源兵衛は徳川幕府より木曽川円城寺川並奉行を任ぜられる事になり、また米野の戦いの際に亡くなった両軍の戦没者を弔う事を徳川幕府に願い出て許可され、、法要を行う専養寺に葵の紋(尾張紋)の使用を許可します。

 

 その後、明治政府にその任を解かれるまで野々垣家当主は、代々源兵衛の名を受け継ぎ川並奉行を務めます。

笠松町、専養寺の境内にある木曽川円城寺川並奉行、野々垣源兵衛一族の墓
専養寺境内 野々垣家先祖代々の墓